大阪府
もずはちまんぐう
百舌鳥八幡宮挙式プラン

H30年10月現在神社の都合により挙式受けられません。悪しからずご了承くださいませ。
スタッフおすすめ
◎駐車場有り
プラン料金
挙式プラン
挙式イメージ 挙式料(50,000円)++支度室料(20,000円)衣装(紋付、白無垢又は色打掛)+着付け
+ヘアセット+メイク+アテンド+ご案内係+出張料+美容出張料+衣装配送料
+婚礼写真(お二人写し1枚台紙仕上)プラン料金そのまま
コミコミ価格のご安心で、お得プラン
まずはお見積りをお求めください!◎挙式プランには肌着以外の全てが揃います
◎プランの打掛は30種類からお選びいただけます
(ご来店時何着でもご試着できます)
◎土日祝でも料金は変わりません
- 洋髪の場合
-
208,000円(税別)
髪飾付き
- かつらの場合
-
+30,000円(税別)
かつら、かんざし、綿帽子
- 挙式料
-
含む(50,000円)
※挙式料をすでに納められている場合は挙式料を差し引きます
- その他
-
H30.7.19現在 神社の都合により挙式を休止いたしております。
この挙式プランに含まれるもの
挙式料 高級衣装 着付け ヘアセット(洋髪・かつら) メイク 花嫁アテンド ご婚礼写真
●神社境内での写真撮影
●打掛は当店自慢の高級西陣織からお選びいただけます。
白無垢:200,000円相当
色打掛:300,000円相当(振袖からお選びいただけます)
●挙式終了まで案内スタッフ、美容スタッフが充分お世話いたします。
◎挙式の申込みから、当日のお世話まですべてお任せください。
オススメご会食・ご披露宴
「ご会食・ご披露宴会場」よりウェディング絆オススメの会場をピックアップしています。
挙式ギャラリー
お写真は「お幸せなお二人」よりピックアップしています。
オプション
【プランご利用の特典】 列席者衣装が、留袖 20%OFF、振袖 50%OFFとお安くなります。
列席者衣装 列席者着付け 十二単プラン ブライダルグッズ 披露宴会場 ドレス ロケーション撮影 ブーケ、会場装花 ブライダルエステ
百舌鳥八幡宮

◎ご由緒・歴史
所伝によれば、神功皇后が三韓征討の事終えて難波に御帰りになった時、この百舌鳥の地に御心を留められ幾万年の後までもこの処に鎮りまして、天下泰平民万人を守ろうという御誓願を立てられ、八幡大神の宣託をうけて欽明天皇の時代に、この地を万代(もず)と称し、ここに神社を創建してお祀りされたと伝えられている。その後社運次第に隆昌に赴き、朝野の崇敬愈々厚く、王朝時代には社僧四十八ケ寺、社家三百六十人、神領寺領八百町歩を擁した。
古い記録としては、現在滋賀県長浜町に応安六年在銘の古梵鐘がある。これはもと本社の什物である。その銘文中に「近衛天皇の仁平年間に本社の梵鐘が鋳造された」旨記されている。又、山城石清水八幡宮所蔵の古文書には、後白河天皇の保元三年に、当社が石清水八幡宮の別宮となっていたことが見える。また後宇多天皇の建治年間には、三百石の年貢米を本宮たる石清水八幡宮に納めていたことが記されている。
又、新葉和歌集には「和泉国万代別宮に参籠し侍りける時よめる」として 「民安く国治まれと祈るかな、人の世よりもわが君の為」という二品探勝親王の御歌が載せられている。親王は亀山天皇の皇子恒明親王の王子であらせられ、南北両朝戦乱の世を憂い給うの余り、当社に参籠された。このように当時皇室の御帰信の深かったことが知られる。前記、応安六年在銘の梵鐘を奉納したのは当時和泉国の領主であった九州の豪族大内氏であり、このように武家の崇敬も厚かった。その後、大内氏の和泉に於ける兵乱や、降っては元和元年大阪夏の陣の兵火等、度重なる災禍を蒙った為、次第に昔日の壮観を失い、什宝、古文書等も多く散逸した。しかし、その後もなお当社は地方信仰の中心として重んぜられた。徳川時代に於ても、青蓮院宮・町尻家・随心院門跡・土屋候その他より奉納寄進などのことあり、近くは明治八年大久保利通卿が参拝され、拝殿の額面を揮毫された。なお、大阪城代の交替の際には、必ず当社に参拝するのが例とされた。また、毎年の例祭には堺町奉行が参向する定めとなっていた。公武の帰信既にかくの如くであったことからも、庶民の崇敬の厚かったことも当然であった。氏子の信仰はもちろん、古来、大阪市、堺市及び近郊の人々の参詣多く、江戸時代に大阪堂島より二三百人の大団体が献納物を奉じて賑々しく参拝したことが記録に見える。堺市の如きは準氏子地の如き関係を有し、現在でも厄除開運として市民の信仰が深いものがある。
古い記録としては、現在滋賀県長浜町に応安六年在銘の古梵鐘がある。これはもと本社の什物である。その銘文中に「近衛天皇の仁平年間に本社の梵鐘が鋳造された」旨記されている。又、山城石清水八幡宮所蔵の古文書には、後白河天皇の保元三年に、当社が石清水八幡宮の別宮となっていたことが見える。また後宇多天皇の建治年間には、三百石の年貢米を本宮たる石清水八幡宮に納めていたことが記されている。
又、新葉和歌集には「和泉国万代別宮に参籠し侍りける時よめる」として 「民安く国治まれと祈るかな、人の世よりもわが君の為」という二品探勝親王の御歌が載せられている。親王は亀山天皇の皇子恒明親王の王子であらせられ、南北両朝戦乱の世を憂い給うの余り、当社に参籠された。このように当時皇室の御帰信の深かったことが知られる。前記、応安六年在銘の梵鐘を奉納したのは当時和泉国の領主であった九州の豪族大内氏であり、このように武家の崇敬も厚かった。その後、大内氏の和泉に於ける兵乱や、降っては元和元年大阪夏の陣の兵火等、度重なる災禍を蒙った為、次第に昔日の壮観を失い、什宝、古文書等も多く散逸した。しかし、その後もなお当社は地方信仰の中心として重んぜられた。徳川時代に於ても、青蓮院宮・町尻家・随心院門跡・土屋候その他より奉納寄進などのことあり、近くは明治八年大久保利通卿が参拝され、拝殿の額面を揮毫された。なお、大阪城代の交替の際には、必ず当社に参拝するのが例とされた。また、毎年の例祭には堺町奉行が参向する定めとなっていた。公武の帰信既にかくの如くであったことからも、庶民の崇敬の厚かったことも当然であった。氏子の信仰はもちろん、古来、大阪市、堺市及び近郊の人々の参詣多く、江戸時代に大阪堂島より二三百人の大団体が献納物を奉じて賑々しく参拝したことが記録に見える。堺市の如きは準氏子地の如き関係を有し、現在でも厄除開運として市民の信仰が深いものがある。
(百舌鳥八幡宮オフィシャルサイトより)